雛祭りのお客さま

今年の雛祭りは、素敵なことがありました!

ひとり暮らしの我が家に、「とうとうのお友だち」が見えましたの。「とうとうのお友だち」って、とうとう会えたわ、というお方のことです。

 そもそも、お会いする前日に、このような華やかにして清楚な花束が届けられたのです。

なんの飾りもない、そっけない部屋が、いきなりエレガントな空間となりました。

この日は、朝から、得意な「ちらしずし」を作りました。
手早く作るはずが、いつもの私のことで、あら、あれがないわ、とか、これがないわ、とかで、買い物に出かけ、手順通りにいかず、「駅に着きましたのよ」と彼女から電話があったときは、まだ、ちらしずしは完成に至っておりませんでした。

 

それでも、「3月3日の秘密パーティ」などと言いつつ、フジコさん(昨年末より、花げし舎の新スタッフ)と、美香ちゃん(説明するとなが~くなるドラマを共有する若い知人)と、私とで、そわそわ、わくわく。そして、「とうとうのお友だち」のお客さまをお迎えし、延々のおしゃべり。夜も更けるまでの楽しい時を過ごしました。

お客さまは、田中未知さん。

彼女は、かつて寺山修司のマネージャーであり、個人秘書だった方、「時には、母のない子のように」や「山羊にひかれて」の曲を作った方、音楽家であり、斬新な企画を実現する名プロデューサーでもあり、映画監督であり、不思議な楽器作家でもあり、のアーティストでもあります。

この日は、あんまり話に夢中で、写真、とくに大好評だった「ちらしずし」の写真も撮るのを忘れ果てていましたもので、昨年の十二月、早稲田大学の寺山修司展のギャラリートークで、はじめてお会いした時の記念写真をおめにかけます!

 

Miti

 

そもそもの出会いのきっかけは、2007年のことです。(思えば、ずいぶん前ですねえ)、私が、朝日新聞の書評委員をやっていた頃、彼女の書いた本の書評をしたのです。

その時、メールを交換したりしたのですが、彼女はオランダに在住。この花げし舎の主催する「アリスのお茶会」にお見えになった方が、お友達だったりして、いつかお会いすることになっていた人、という縁を感じながらも、お会いする機会がなかなか訪れなかったのです。

 

 

 

 

さて、その出会いのきっかけになった本が、「寺山修司と生きて」(田中未知著 新書館刊)です。

 

 

 

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 7年前、私の書いた書評は、こういうものでした!

「 本書の扉には、こう記されている。

<未知、きみは固有名詞じゃない。ぼくとの共通名詞である。一緒につくった一つの存在です。――寺山修司>

 寺山修司は、すでにこの世を去っている。24年前(注・1983年)47歳で。その彼からこのような言葉を贈られた女性とは誰なのか? 著者、田中未知は、1969年に大ヒットした寺山修司作詞、あの「時には母のない子のように」の作曲者、そう言えば、思い出す人は多いかもしれない。

 さらに、詳しく記せば、寺山が結成した演劇実験室「天井桟敷」の制作、照明を担当。その傍ら、個人秘書として、16年、彼を公私に渡って支え、死を看取ることとなった女性である。  

 そして寺山を喪った3年後。彼女は、周囲にあて先も告げずに日本を脱出。オランダの田舎で、畑を耕して暮らし、夏にはテントを携え、ヨーロッパの山々を旅して回る日々を送っていたという。

本書は、そんな著者の24年間の沈黙を破る「寺山修司と自分」を語る本である。

寺山修司が、何をしようとし、なにを成しとげ、(他者から)なにをされたのか。寺山作品批判への反論、伝記作品の誤りの指摘、寺山の母の横暴への怒り、彼を救わなかった医者の告発など。衝かれたように書き綴ってある。

 まるで、寺山修司の分身のごとく。まるで、寺山修司が、つい昨日まで、すぐ傍らにいたかのように。

 沈黙は、「私に静謐をもたらさなかった」と彼女は記しているが、この20年とは、この世界に「寺山修司」が不在であるということを納得するために、彼女には必要な時間だったのだろう。そして、不在の「寺山修司」を探し続けて見つけたのは、「死んだ人は、みな言葉になる」ということの実感だった。

 自分の職業は「寺山修司」であり、人生の大半を自分のことより彼のために生きた、と言い切る著者の想いに打たれざるを得ない。

「田中未知」は、鬼才寺山修司が、彼流のやり方で、この世に残していった作品である、そんな思いがした。」