みんな、同じ屋根の下

「みんな、同じ屋根の下」リチャード・B・ライト著、堀川徹志訳(行路社)

 

 近頃、どんどん老いていく。あっけにとられるスピードで。なんというか、「肉体の衣のほころび」の速さに心(魂)が追いつかない、って感じで、時々、困惑する。息切れがする。私、どんなおばあさんになってしまうのかしら、と。

ところがいたのである。この小説の中に。そう、「サンセット老人ホーム」に未来の私が。

主人公のケイ・オームズビー、彼女は、記憶力の減退におびえながらも、文学や音楽を愛し、時に、ひとり詩を朗読する。難点はやめられない煙草(私は、とうにやめたけれど)。就寝前のウィスキー(私は、ワインか梅酒だけれど)。でも、これは、いずれも眠りを誘う妙薬なのだ。

ともあれ、断固、精神の自由を守るべく周りには我関せずで、出掛けたい時には勝手にお出掛け。老いるほどに、自己完結して生きる元女教師。ああ、と思う。私もこんな感じがいい、たぶん、そうなる。いや、そうなりたい。たちまち親近感を覚え、惹きつけられてしまった。

物語は、その彼女がホームに入居してからのわずか一ヶ月を描いたものだけれど、そこは、老人たちの記憶や妄想が縦横無尽に交錯する世界。その豊かさゆえに、現実にはなにが起こらなくても、日々がいつもドラマチックでおかしいのである。

そう、記憶とは過ぎ去ってしまったものではなく、それぞれの心身に刻まれたもの。

老いとは、そのたくさんの記憶の「私」と共に生きていくことか。十代の私、二十代の私、四十代の私、六十代の私・・・、たくさん「私」がいるから、多少、記憶が消えても問題ないかも。誰にはばかることなく、勝手に、はらはら、どきどき生きればいい。人生には、老いた分だけ、甘い記憶もすっぱい記憶も、いろいろとりそろっているから、はたから退屈そうに見えても、きっとたいくつなんかしないのだろうな。

「滅びゆく肉体の衣のほころびが 一つふえるたびに  

さらに 声を高くして歌うことだ」

 

読了後、冒頭に掲げられているW.B・イエイツの詩を主人公のケイ・オームズビーのように、私も背筋をシャンと伸ばして朗誦したくなるのだった。